三重の本草家

本草家とは、中国古来の薬物学である本草学を修めた人をいいます。本草は元々木と草のことを指しますが、古来薬用植物だけでなく、薬として用いられる動物や鉱物をも採り上げています。本草学はいわば薬用天産物の学問です。 三重は、歴史的にも著名な本草家を多く輩出しています。

野呂元丈(のろ げんじょう 1693-1761)

江戸時代中期の本草学者。日本における蘭学の江戸時代先駆者とされる。本姓は高橋、名は実夫。通称は源次。連山と号す。野呂三省の養子。 伊勢国(現在の多気町)に生まれる。20歳のとき、京都に出て、医学、儒学、本草学を学ぶ。享保5年(1720年)江戸幕府の命で、諸国の薬草を採取する。当時の将軍徳川吉宗は西洋の学問のうち、実用的なものについては禁を緩め導入を図ったが、この吉宗の命を受けて青木昆陽とともに蘭語を学ぶ。
さらに江戸参府中のオランダ人からヨンストンの本草書の存在を聞いて、日本最初の西洋博物学書ともいうべき『阿蘭陀本草和解』を著した。

丹羽正伯(にわ しょうはく 1691-1756)

江戸中期を代表する本草学者。 
伊勢国松阪(現・三重県松阪市)に生まれた医者であり、本草学を京都の稲生若水に学び、後に江戸幕府の採薬使に登用される。野呂元丈・植村政勝らと各地の採薬調査を行う傍ら、下総薬園の管理、薬草の栽培を命じられた。なお、正伯が管理をしていた下総滝台野薬園(現・千葉県船橋市薬円台)がその後、同地の地名の由来となった。また、彼の功績を称え、「薬園台」を地域では別名「正伯新田」という呼称もあり、古地図にも記されている。 

主な著書は、若水から引き継いだ本草学書「庶物類纂」や全国の動植物、鉱物等産物を網羅的に調査した「諸国産物帳」などがある。
正伯は宝暦6年に江戸で没したが、後に薬園台村の人びとにより、顕彰の供養碑が建てられ、その正面には諦通院日慮と刻まれている。

植村政勝(うえむら まさかつ 1695-1777)

江戸時代の隠密・本草学者。号は新甫。通称は佐平次。 
紀伊藩領である伊勢国大津杉村(現在の三重県松阪市)の郷士植村政恭の子。宝永7年(1710年)に紀伊藩主徳川吉宗に召されて御庭方となり、吉宗が将軍に任ぜられるとこれに従って江戸城に入り、江戸幕府御庭番となった。享保5年(1720年)に幕府駒場薬園の園監に任ぜられ、採薬使を兼ねる。以後、宝暦4年(1754年)に職を退くまで30年以上にわたって諸国の草木の実地踏査を行い、各地で未知の動植物を発見して『諸州採薬記』に記録として残し、退任翌年の宝暦5年(1755年)に幕府に献上された。

ただし、これは長年公刊されることはなかった。これは、政勝が実際には隠密としての諸国探訪であったからだと言われている。江戸で没して、郊外の森巌寺(東京都世田谷区代沢)に葬られた。